• 桜 日本心創り・智慧創り研究所

古史古伝には、現代の医学では解明できない、
健康に関する多くの智慧が隠されています。
長い年月をかけて先人が培ってきた経験と知識には、
人や地球にも優しい自然の摂理に沿った
健康法として注目されています。
『伝承療法』を取り入れ、
健康維持をしてみませんか

こころつくり・ちえつくり

天から授かった『米の転換』
Vol.6

古来より日本人のアイデンティティと深く結びついてきた。
日、水、土、の恩恵は、かけがえのない存在『米』

日本の古書『古事記』では、天孫降臨によって天照大神からさずかった稲で 米が作られ そして日本の礎を築いたと神話で、語られ日本国の始まりになった。

<農業技術の進歩と生産量の増加>

平安時代(特に後期)は、水田開発がかなり進み、稲作が日本中に広まりましたが、まだ生産技術は限定的でした。 鎌倉時代は、技術革新によって、米の生産性が飛躍的に向上した「転換期」でした。

[鎌倉時代の農業変化]

1:新しい農具の普及
より効率的な耕作を可能にする農具が普及した。 犂(すき)牛や馬に引かせて田畑を深く耕す犂が普及し、耕作面積が拡大しました。 踏車(ふみぐるま)水田に水を効率よく引き込むための踏車が使われ始め、灌漑が改善されました。
水車

2. 肥料の使用と土地改良
より積極的に土地の力を活用する技術が広まりました。 施肥法の改善: 草木灰(そうもくばい)や人糞などの肥料(有機肥料)が本格的に使われるようになり、 連作による地力の低下を防ぎ、米の収穫量を増加させました。
肥料

3. 二毛作(裏作)の普及
土地の利用効率が格段に向上しました。 二毛作の導入: 米の収穫後、同じ水田で冬から春にかけて裏作として麦(大麦・小麦)を 栽培する二毛作が西日本を中心に広まりました。 影響: これにより、農民は一年に二度収穫を得られるようになり、生活が豊かになるとともに、 後の室町時代の米の商品化の土台が築かれました。 苗を植え替えることで、稲が株元から新しい茎をたくさん出す現象(分蘖)が促され、 一株あたりの穂の数が大幅に増えました。直蒔きでは、一粒あたりの収穫量は低かったのです。


麦 米 苗

飢饉のリスク分散
米(表作)の収穫が年間を通じて何かしらの食料を確保できるようになり、 飢饉のリスクを軽減できました。
食料の多様化
米だけでなく、麦という別の主食や、荏胡麻(油の原料)などの作物を手に入れられるようになり、 食生活の安定につながりました。

米 麦 ゴマ

貧富の差の拡大
農業生産力が向上したにもかかわらず、貧富の差は解消されず、 技術や資本を持たない農民と、それを活用できた農民との間で格差が固定化・拡大していきました 鎌倉時代は農業生産力が高まったことで、農村社会に「富める者」と「貧しい者」の 格差がより明確に現れる時代となりました。

<武家政権の確立>

貴族中心の文化から武家支配時代の幕開けとなった鎌倉時代です。

頼朝

鎌倉源氏山公園『頼朝像』

武家政権の誕生
源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いたことで、 それまでの貴族(公家)による政治から、武士が主導権を握る新しい政治体制が始まりました。 御恩と奉公関係が、 将軍と家臣(御家人)との間に、将軍が土地の支配権を保証する 「御恩」と、御家人が軍役などで忠誠を尽くす「奉公」という主従関係が結ばれ、武家社会の基盤となり 執権政治と呼ばれる体制が確立しました。

貴族社会から武家支配に変わった

貴族
平安時代(後期)
人力主体の単純な農具
主に単作(米のみ)
緩やかな増加
武士
鎌倉時代
犂(牛馬の利用)、
踏車(灌漑二毛作)
(米+麦)が普及
大幅に向上(技術転換)

[流人と駆け落ちが、貴族の世を終わらせる政権発起の狼煙となった。]

『蛭ヶ小島』

夫婦
平治の乱で負けた源頼朝は14歳の時、 蛭ヶ小島(現在の伊豆国市)へ流罪となり、 後1177年(治承元年)頃北条政子21歳頃父に 反対されながらも、熱烈恋愛後に結ばれます。 この結婚は、頼朝が伊豆の有力豪族である 北条氏を味方につけることになり、後の挙兵、 武士政権を発起し挙兵した場所でもあり、 そして鎌倉幕府の成立に不可欠な基盤となりました。 二人が北条家を出て駆け込みしたのが 伊豆山権現と言われてます。 現在の『伊豆山神社』
『伊豆山神社』

伊豆山

北条政子のリーダーシップ
承久の乱(1221年)の直前に、御家人たちの士気を高め、朝廷側(後鳥羽上皇)につくことへの躊躇を打ち破った演説内容。

北条政子木像(安養院所蔵)

政子
北条政子の演説
皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最後の言葉です。 亡き頼朝が宿敵(平家)を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いてから、 お前たちの官位は上がり給料もずいぶん増えました。 お前たちはかつて、平家のもとでどう扱われていましたか? よい暮らしができるようになったのではありませんか? すべてこれ、亡き頼朝の御恩。 その御恩は、 海よりも深く山よりも高いのです。 今、反乱者(後鳥羽上皇)によって、 理に反した命令が下されました。 今こそ頼朝公へのご恩を返す時。 ご恩を感じて名誉を大切にする武士ならば、よからぬ者を討ち取り、 三代にわたる将軍家の恩に報いよ。 ただし朝廷側につこうという者があれば、 それは構いません。 早く行きなさい

<最強のリカバリー食『梅干しおにぎり』>

にぎり

恩義を噛みしめ、京へ。尼将軍「北条政子」の知恵が詰まった、
『梅おにぎり』エピソード
頼朝が絶えた後、京の後鳥羽上皇が、鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵した「承久の乱」(1221年)が きっかけで『梅干しおにぎり』が普及することになります。

鎌倉時代は武士が全国を統治するようになり、戦いの形態が大規模化・長期化しました。 そのため、持ち運びやすく保存の効く兵糧(食糧)が非常に重要になりました。
集結した20万もの幕府勢(東国武士団)に対し、当時まだ貴重であった米と梅干しを携行食として分け与えたと伝えられています。

[承久の乱で、おにぎりが果たした大きな役割とは?]

実用性
分け与えられた米は握り飯(おにぎり)にされ、腹持ちが良く兵士の胃袋を満たしました。

保存性
具材として使われた梅干しの塩分とクエン酸には、当時の過酷な環境下で重要な殺菌・腐敗抑制の作用がありました。 これは野外で活動する兵士にとって非常に合理的な組み合わせでした。 承久の乱で幕府軍が勝利を収めた後、「梅干し入りのおにぎり」が戦場での優れた携帯食として認知され、 全国の武士や庶民に広く知れ渡り、普及するきっかけになったと言われています。

[ 承久の乱で食べた米の予想数量はどのぐらいだったのか?]

上洛にかかった日数
承久3年(1221年)5月22日頃に鎌倉を出発し、 先陣は6月5日頃には京都付近に到着しています。
おおよそ2週間弱(約14日間)程度の行軍期間です。
当時の武士が携帯した食料の具体的な数量に関する記録はありませんが 現代の感覚で、一日二食として1食につき,おにぎり2個と仮定して、 当時の武士の体力維持に必要な量かどうか別として、計算してみました。
仮定する数字として
兵の数,"190,000人"
行軍期間,14日間
一人一日あたりのおにぎりの数,4個 (朝2個、昼2個など)
190,000人 x14日間 x 4個/日 = 10,640,000個
米俵

コンビニサイズ約100gとしてお米の総数は 100g x 1064万個はお米を炊く前の 重量計算(米の重さ換算係数0.46として) 約489440kg(48トン)!!ビックリ 現代の巨大な倉庫が必要になるほどの量であり 当時の鎌倉幕府が備蓄していた米の量の規模の大きさを想像させますね。 ちなみに馬での輸送力から考えると何頭の馬が必要だったのか アバウトですが1頭で120kgとしても4000頭以上になります。 その他梅干し、味噌、武器、道具、飼料etc...大量な物資を運んでいた と思われます。 この大規模な兵站を、わずか2週間ほどの短期間で鎌倉から京都まで 移動させたことは、当時の鎌倉幕府の組織力と動員能力が非常に 高かったことを示しています。 馬

梅おにぎり

梅一粒で最高の労い、戦況を変えた女性政治家


幕府側の武士たちに食料を用意させた中心人物は、 初代将源頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)でした。 そのため、実質的に「梅干しおにぎり」の普及に最も貢献したのは、 鎌倉幕府、特に北条政子の指導の下で食料を準備した人々と 言えるでしょう。 梅干し自体は、飛鳥時代に中国から伝わり、平安時代には 薬として使われていた貴重な薬でした。 米を固めて作るおにぎり(握り飯)も古くから存在しましたが 梅干しが具材として定番化し、全国に広がるターニングポイントと なったのが、この承久の乱での利用だったと考えられています。 北条政子は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正妻であり 頼朝の死後に「尼将軍(あましょうぐん)」として 幕府の最高指導者の一人となり、武家政権の安定に決定的な 役割を果たした北条政子は女性政治家だったと言えるでしょう。
梅花 梅実 梅干

伊豆は温暖な気候であり、古くから梅の生育に適していました。 現在でも、伊豆には熱海梅園など梅の名所があることからも、 鎌倉時代の前から梅の木が自生し存在していました。 梅干しの材料となる梅の木は、鎌倉時代はもちろん、それ以前から伊豆の地に存在し、 実が古から貴重で薬として採られていたと考えられます。

おにぎりの原型自体は、鎌倉時代よりずっと古い時代に遡ります。
弥生時代は、石川県の遺跡からは、もち米を蒸して固めたとされる炭化米塊が出土されてます。
平安時代は、貴族の宴会などで、もち米を握り固めた「屯食(とんじき)が下級役人に振る舞われていました。
現代につながる「うるち米(普通の白米)を使った携帯食」としてのおにぎりが広がるのに、
鎌倉時代の武士の文化と承久の乱が大きな役割を果たしたのです。

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