• 桜 日本心創り・智慧創り研究所

古史古伝には、現代の医学では解明できない、
健康に関する多くの智慧が隠されています。
長い年月をかけて先人が培ってきた経験と知識には、
人や地球にも優しい自然の摂理に沿った
健康法として注目されています。
『伝承療法』を取り入れ、
健康維持をしてみませんか

こころつくり・ちえつくり

天から授かった『米の信仰』
Vol.4

古来より日本人のアイデンティティと深く結びついてきた。
日、水、土、の恩恵は、かけがえのない存在『米』

日本の古書『古事記』では、天孫降臨によって天照大神からさずかった稲で 米が作られ そして日本の礎を築いたと神話で、語られ日本国の始まりになった。

<米の技術進歩と時代背景>

白虎

高松塚壁画館展示時品
『白虎』模写画像

女

高松塚壁画館展示時品
『女子群像』模写画像

玄武

高松塚壁画館展示時品
『玄武』模写画像

大和政権が確立し巨大な古墳が建設された古墳時代を経て、朝鮮半島経由して文化や技術が広まり 豪族達が統合され階層社会になっていた飛鳥時代から奈良時代へと移行していきました。 豪族同士の争いや戦争も頻繁に起こり、鉄器の普及により武器や防具の製造が進みました。 武士階級の始まりとなっていきます。それに伴い鉄農具も進化し急速に稲作文化が発達し 米での税金の仕組みの始まった時代になります。

飛鳥時代は、
一般的には推古天皇が即位した592年(または593年)からとされており、 終わりは710年の平城京遷都までの約120年間を指します。飛鳥に都が置かれていたこの時代は、 聖徳太子による政治・文化改革や、仏教の伝来など、日本が大きく変化した重要な時期です。

推古天皇

帰属:日本語: 土佐光芳英語: 土佐光義, Public domain, via Wikimedia Commons

推古天皇(すいこてんのう)は、日本初の女性天皇として、聖徳太子を摂政に任命し、 冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣など、中央集権国家の基盤を築くための改革を 聖徳太子・蘇我馬子と共に推進しました。仏教を国家の方針として受容し 、「三宝興隆」の詔を発したことでも知られ、仏教文化が花開く飛鳥文化の最盛期を主導しました。

奈良時代は
飛鳥から平城京に都が置かれ天皇中心の政治が行われた時代です。 一般庶民は、米や特産物を「税」として納めたり、厳しい労役が課せられた。 華やかな都の文化とは対照的に人びとのくらしは大変苦しかったのです。

<米の役割>

米は単なる食料ではなく、経済、政治、社会を支える基盤でした。 この時代、米は主に以下の3つの役割を担っていました。

1.税としての役割

大和朝廷が土地と国民を直接支配するために定めた律令制度において、米は主要な税として徴収されました。

国家から🌾口分田くぶんでんを与えられた人々が国家に納める税には3つあります。
税により、朝廷は徴収した米を蓄えることで国家の財力を高め、その権威を確立しました。 地方の有力者も、多くの米を集めることで権力を維持していました。 このことにより米は富と権力の象徴となっていきます。

租庸調

税にはの3種類
「租(そ)」口分田から収穫された稲の一部を納める税。国衙の財源
「庸(よう)」都での労役や代わりに織物などを納める税。都の運営費用
「調(ちょう)」地域の特産物(布、海産物、鉄製品など)を納める税。
都の運営や貴族たちの生活を支えるための重要な財源

国家は人民に口分田という生活の基盤を与え、その代償として、口分田からの収穫物(租)と、 人々の労働力や生産物(庸・調)を徴収し、律令国家の財政を維持しました。 しかし、口分田の割り当てが不十分になったり、遠方への労役や税の運搬(運脚)の 負担が非常に重かったりしたため、この仕組みは次第に機能しなくなり、平安時代には崩壊へと向かっていきます。

2.紙幣としての役割

飛鳥、奈良時代の米は現代の貨幣と同じように、物々交換の基準や価値の尺度として機能してました。

米本位制
米の生産量や貯蔵量が個人の豊かさや地位を決定づけてました。
長期保存と運搬
米は長期保存可で、大量に運搬でき、流通や経済活動を支える上で非常に便利だった。

南集落

5世紀以降の鍛冶屋と交易の様子
樫原考古学研究所付属博物館展示資料

宝蔵

奈良の唐招提寺創建にあわせて建立された
『宝蔵』ほうぞう 8世紀
米倉を改造して作られた日本最古の校倉

3.食料としての役割

米は人々の主食であり、生活を支える上で不可欠な存在でした。

稲作技術の進歩により、安定した食料供給が可能となり、人口増加や社会の安定に貢献しました。 米は単なる食料を超えて、神聖な食べ物とみなされ、神事や祭事においても重要な役割を果たしていました。

🌾米の祭祀

奈良時代頃が起源とされている最も古い祭祀の一つが、
『新嘗祭(にいなめさい)』や『大嘗祭(だいじょうさい)』宮中の儀式です。

『新嘗祭』
天皇がその年の新しい穀物(主に米)を天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らも食して、 豊穣を感謝する儀式で、宮中行事の中でも特に重要視されました。

新米

『大嘗祭』
天皇の即位後、初めて行われる新嘗祭で、国家の安寧と五穀豊穣を祈る最大の祭祀でした。
次米(すきまい)の献納、新嘗祭などに供えるための米(次米)が、特に品質が良いとされた地方の田から選ばれ 朝廷に献納されました。この献納記録は、出土した木簡(もっかん文字を書いた木の札)からも確認されており、 米が神聖な供物として扱われていたことがわかります。

大嘗祭
墨書

吉備遺跡第8次調 出土
飛鳥時代7世紀

木簡

硯上之宮遺跡出土硯と安倍寺跡
第20次調査出土木管
飛鳥時代〜藤原京期7〜8世紀
桜井市立埋蔵文化財センター展示品

祭祀具

祭祀で使用した道具
安倍寺遺跡出土品
6~7世紀頃
出典:桜井市立埋蔵文化財センター展示品

🌾 安倍寺遺跡周辺と米の管理
安倍寺跡は、当時の有力貴族である阿倍氏の氏寺であり、周辺地域(大和国)は古代の米作りと税制の要地でした。 寺院の経済基盤として大量の米を管理していたことは、当時の歴史的状況から推測できます。 寺院は、氏族(阿倍氏など)や国家から施入された田地からの収益(米)によって維持されていました。 そのため、寺院の敷地内、または周辺に米の倉庫(倉)が存在した可能性は非常に高いです。

稲作と信仰は、古代の人々は、米の豊作を願って、田植えの前後に水路の清掃や祭祀を行うなど、 稲作の過程で様々な信仰や行事を行っていました。 稲作にまつわる妨害行為は、「天つ罪(あまつつみ)」として国家に対する罪とみなされるほど『米』は 大切なものだったのです。

🍚米の食料事情

食事は、階級によってその種類や摂取量が大きく異なり、
1日2食が基本の食生活で米中心の食事でした。

貴族・役人の食事(豪華)

主食:
貴族は主に精白した白米を、役人は玄米をご飯や強飯 (こわいい:うるち米を甑(こしき)で蒸した硬めの米) として食べていました。白米は貴重品でした。

副食:
鯛、アワビ、エビ、イワシなどの魚介類(海から遠い都では 干物や塩漬け、なれ鮨が主)、鴨や鹿などの肉類(仏教の影響で 肉食はしばしば禁じられましたが、貴族は食べていた記録があります) 野菜(ウリ、ナス、カブ、ネギなど)、木の実(クリ、クルミなど)が 並び、献立は豪華でした。

調味料:
塩、酢、醤(ひしお)(現在の醤油や味噌の原型)、 味噌(みそ)などが使われましたが、醤や酢は貴重品でした。 乳製品: 牛乳を煮詰めた蘇(そ)(古代のチーズのようなもの)や、 牛乳ベースの飛鳥鍋なども上流階級で食されました。

貴族食

奈良文化財研究所
藤原宮跡資料館

庶民の食事(非常に質素)

主食:
玄米や雑穀(あわ、ひえなど)を混ぜた ご飯や粥が中心で、米の摂取量は少なかったです。

副食:
一汁一菜が基本で、塩漬けの野菜、 ゆでた青菜や山菜、海藻(アラメなど)を具にした 汁物など、非常に簡素でした

調味料:
塩のみが一般的で、醤や酢は庶民には手が 届かない貴重品でした。 栄養状態: 庶民の食事は摂取カロリーが少なく、 栄養不足に陥る者も多かったと記録されています。

庶民

奈良文化財研究所
藤原宮跡資料館

箸

奈良時代は、箸の始まり

675年(天武天皇の時代)に仏教の伝来ともに肉食禁止令が出され、一部の動物(イノシシ、シカ、野鳥など)を除いて 肉食を避ける習慣が広がり、食事は穀物、野菜、魚介類が中心になっていきました。 そして飛鳥時代お隣の中国から遣隋使が持ち帰って伝わったとされています。 古墳時代までは「手掴み」や「しゃもじ」のようなもので食べていたものから箸を使うようになっていきました。 平城京跡から沢山の箸が出土しています。ですが平城宮の外ではほとんど見つからないことから、 箸の使用は平城宮の貴族や役人たちから始まったようです。 はじめは、奈良時代の箸は両端が同じ太さでした。先細りの箸を使い慣れた私たちには使いにくそうにみえます。 やがて奈良時代の終わり頃になると、先細りの箸が登場し、各地で出土するなど、一般の人たちにも箸が急速に普及していきました。 箸の始まりです。

参考:なぶんけんブログhttps://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2017/04/tanken166.html

古代飛鳥時代から受け継がれている郷土料理を紹介します。
『蘇』と『なれ鮨』

蘇
『蘇』
牛乳を煮詰めて作ったもの
古代チーズとも言ってます

出典:農林水産省
「にっぽん伝統食図鑑」

なれ
『なれ鮨』
牛乳を煮詰めて作ったもの
古代チーズとも言ってます

出典:農林水産省ウェブサイト
(https://www.maff.go.jp/j/
keikaku/syokubunka/k_ryouri/
search_menu/menu/
nare_zushi_wakay

古代において食料の長期保存と栄養補給のため古来から食べられていたと考えられます。 牛乳や乳製品の製造・利用は稀少であり、貴重な栄養源として、また高貴な食べ物として扱われました。
一方で、庶民のタンパク源は、植物性タンパク質と沿岸部の魚介類でした。
大豆を発酵させて作られた「醤(ひしお)」や「未醤(みそ)」、「豉(くき)」といった食品が、 飛鳥時代から奈良時代にはすでに日本に仏教伝来と共に製法が伝わってきました。
まだ庶民の日常食ではなく、主に貴族や役人階級の調味料や薬として、貴重なものでした。

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