古から語り継がれてきた『水』は生命の根源
『健康の鍵は水にあり』
Vol.3「古代の水」
「38000年前から今も湧き出ている生命の源水」
Vol.3『古代の水』
「38000年前から今も湧き出ている生命の源水」
更新2024/11/30
目次▼
Vol.3
『古代の水』
38000年前から今も湧き出ている生命の源水
<人類が誕生した頃の水はどのように確保していたのだろうか?>
おおよそ20万年前ぐらいにアフリカに居た猿人が進化し、新人類ホモ.サピエンスが誕生したのが15〜16万年前と言われてます。 今回は三万八千年前の鈴木遺跡から出土した物から考えられている当時の生活状況と水の関係を紹介していきます。
日本に人が渡って来た38000年前の地球は現在よりもずっと寒冷で今よりの気温は7〜8度前後低かったと言われます。 その為海水は凍って氷河となっている場所が多く日本列島周の海水面は今よりも100m低く、 海岸線は現在よりずっと沖合に方でした。 その為サハリン島と北海道は、ユーラシア大陸と陸続きとなり、本州.四国.九州は一続きの島になってました。 津軽海峡は繋がってませんでした。そして対馬海峡は極めて狭くなってました。
(*対馬海峡は、つながってはいませんでしたが時期により凍り歩いて渡れた可能性があったようです。)
大陸と繋がっていない日本にどのように辿り着いたのか?
旧石器時代の船そのものがまだ発見されてません、現在は徒歩で移動してきた とされてます。最も可能性のある陸続きの対馬ルートで九州に辿り着き 鈴木遺跡まで来たのではないかと推測されてます。 ユーラシア大陸から北海道まで徒歩移動できたのでマンモスは北海道には 生息していた可能性はあります。 ですが本州へは津軽海峡を渡らないと来れませんので対馬ルートから来る 動物は生息していた。ナウマンゾウ、ヘラジカ、ヤギュウ、オオツノシカ、 などが本州では食料だったようです。

国史跡鈴木遺跡資料引用



<22000年間枯れることなく湧き水があった鈴木遺跡とは?>
38000年前は朝鮮半島と対馬は近かったので日本に初めて人類が辿り着いたのが九州だったようです、 そして人が生きていくことができる「水」と「食料」の確保ができる場所として鈴木遺跡の土地にもやってきた。
この時期は寒冷な生活環境だから農耕や牧畜はしておらず、 まわりに生息していた動物を対象に狩猟をしたり、自然にあるものを採取して暮らしてました。 当時は針葉樹が多く食べられる木の実は少なく狩猟中心の食生活をしてました。 獲物を追いかけて生活する『遊動生活』でした。 鈴木遺跡の台地は大規模な湧き水もあり野営地に最適だったのです。
そして3万年前に大噴火した、姶良丹沢(あいらたんざわ)火山灰が鈴木遺跡のⅥ地層にもみられます。 この噴火で「桜島」が誕生したのです。 ナウマンゾウのような大型動物は約2万年前あたりで絶滅したのではないかと出土品の石器形状から推測されてます。 大型の動物は、気候変動により絶滅し変化していった、南関東地方の後期旧石器時代に使われた石器の形と組み合わせ(文化層) など移り変わりを鈴木遺跡だけで通して追うことができるの特徴です。
[鈴木遺跡出土資料参考もとに当時の生活イメージ]









鈴木遺跡の生活環境
・気候は寒冷で現在の1500m付近の高原気候に近く植生は針葉樹林が広がり、
コナラ.ハンノキなどの落葉樹があった。
・農耕や牧畜はしてなく、大型動物の狩猟が主な食べ物だった。
・食物を求めて遊動生活していた。
・人々が住んだところは、山地の岩陰や洞窟なども利用していた。
・地面を浅く堀り、くぼめ木の枝を差し掛けた簡単なテント状のものに住んでいた。
・一番大事な水場が近くにあった。(湧水が豊富だった)
・肉を黒曜石などの石で作った道具で解体し、焼いて食べていた。

国史跡鈴木遺跡資料引用
<旧石器時代の料理法はどのようにしたのか?>
後期旧石器時代の人々は、石器のほかにも植物や動物の角や骨、皮などの道具など使用してました。 まだ土器は使ってませんでした。当時酸性度の高い火山灰が降り積もっていた為石以外の有機質の道具は 溶けてしまいほとんど出土してません。なので当時の生活の様子を探るには石器が大きな手がかりになるのです。
遺跡には礫群(れきぐん)の痕跡があった。

国史跡鈴木遺跡資料引用
こぶしぐらいの石が数十から数百個集まっていた。
石は焼けて石化していた。
石焼き料理した痕跡と考えれてます。
まだ土器は無い時代なので料理法として
・直接火で炙り焼き、
・木の葉に包んで蒸し焼き、
・焼石の上に肉を乗せて焼いた、
石のなかには炭化した動物の油が付着している
ものもありました。


<当時の調理道具はどんなものだったのか?>
当時使用していた石器は鋭い形をしたものが多いことから、槍などで捉えた動物の狩猟道具として使われていたそして、 斧型石器は古い地層からみつかることから、当時生息していたナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物の解体に使われたと考えられてます。
石斧(せきふ)
:斧(おの)みたいな形をしたもの
木や動物の骨などを打ち割る道具

局部磨製石斧と打製石斧
国史跡鈴木遺跡資料引用
ナイフ形石器
:斧(おの)みたいな形をしたもの
木や動物の骨などを打ち割る道具

局部磨製石斧と打製石斧
国史跡鈴木遺跡資料引用
細石刃
:斧(おの)みたいな形をしたもの
木や動物の骨などを打ち割る道具

局部磨製石斧と打製石斧
国史跡鈴木遺跡資料引用
鈴木遺跡付近には火山がありませんが出土している黒曜石は、遠方の産地から持ち込まれたものと考えられます。 現代の科学分析で八ヶ岳、箱根、伊豆、高原山などの4つの地域から持ち込まれたものと判明してます。

国史跡鈴木遺跡資料引用
38000年前鈴木遺跡には水源となる大規模な湧水がありました。 太古の時代は石神井川の水源でした。(現在は枯れ水源は東に移動してます) 現在も鈴木小学校の校庭から湧き出ている水は、古代の飲み水 だけでは無く、豊かな緑や動物達の集まる水辺の水でもありました。 獲物を追って生活していた人々が川も無いこの地に辿りついたのは、 この湧水は貴重なオワシスだったのです。
寒冷だった約3万8千年前から1万6千年前頃の約22000年間に使われた石器が、 始めから終わりまで途切れることなく大量に出土したのが鈴木遺跡です。
石器時代以降、鈴木遺跡地の湧き水はほとんど枯れ、川のない小平は不毛地帯となり、 人々が暮らすようになるのは、玉川浄水ができた江戸時代以降になります。
<近年の鈴木遺跡近辺>


(昭和49年)鈴木遺跡発掘当時
水車関連遺構出土状態

武蔵野台地にある小平は平坦で自然の川が ほとんどなく、遺跡の少ないところです。 日本を代表する旧石器時代の遺跡が初めて 見つかったのは、江戸時代半ば、1724年に 鈴木新田が開かれた時になります。江戸時代 今の鈴木小学校の場所に深谷定右衛門に よって粉挽の水車が設ける時に発見されました。 この水車は徳川家康によって作られた 「玉川上水」から引いた水路にかけられました。 水車を回した水(多摩川の水)は、石神井川の かつての流路に流されました。

小平の郷土料理「糧うどん」由来
開拓が進み、用水路によって生活用水が確保できる ようになっても、依然として水は貴重。しかも、小平が ある武蔵野台地は“逃げ水の里”といわれるほど水はけ のよい土地なので、水がすぐ土にしみ込んでしまい、 水田には向きませんでした。それで畑作が中心となり、 うどんの原料となる小麦が盛んに作られるように なったのです。
昭和53年〜54年頃新小金井街道を作る際の発掘調査時写真

国史跡鈴木遺跡資料引用