『茶の湯 健康の智慧』
🌱日本の『茶の湯』文化の起源
日本で最古と言われる
3つの茶事
Vol.2
・最澄が運んだ、日本の茶葉の始まり
・『茶の湯』の始まりを告げる献上
・お茶始まりは、薬として扱われていた
<Vol.2>
日本の『茶の湯』文化の起源
最澄が運んだ、日本の茶葉の始まり
805年に伝教大使・最澄と空海が遣唐使として天台華頂山の天台宗総本山である
国清寺で仏教の修行した際、最澄が茶の実を日本に持ち帰り、比叡山の麓にある
坂本の日吉大社付近に植えたのが始まりといわれてます。
この頃奈良時代から平安時代初期のお茶は薬として扱われごく一部の僧侶にしか口に出来ない貴重なものでした。
日吉大社
比叡山
信長の炎にも負けず、息づく茶の命脈
1571年織田信長による比叡山焼き討ちで、その為日吉大社近隣は荒廃した歴史は皆さんご存知だと思います。 その時の茶木の子孫と思われる茶木が日吉茶園に現存されているようです。 近年東京大学の研究グループが2020年にDNA検査でほぼ天台華頂山の茶木とほぼ同種と言う結果がでたそうです。 これだけで最澄が持ち帰った茶とは判明できませんが、日吉茶園(clik) の茶のルーツは、天台山の茶木だろうと言うことです。味、香り興味深いですね。 中日新聞に2022年5月3日日吉茶園さん茶摘み(clik)も掲載してます。
最澄と空海の修行場
神秘のベールに包まれた、聖なる山「天台山」とは
中国浙江省東部にある天台山脈の主峰は華頂山(かちょうざん) 標高1138mあります。天台山は数百から千mぐらいの 峰々が連り、最高峰は華頂山とも呼ばれている華頂峰で最澄と 空海はこの場所で修行したとされています。
元趙蒼雲劉晨阮肇入天台山圖卷
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元趙蒼雲劉晨阮肇入天台山圖卷(げんちょうそううんりゅうちえんげんそうにゅうてんたいさんずかん)は、
13世紀後半から14世紀前半にかけて制作された、
中国元代の絹本墨画の長巻作品です。
この作品は、東漢時代の劉晨と阮肇が天台山で仙女と出会い、
半年間共に過ごした後に人間界に戻ると、
7年間も経っていた、という伝説を描いたものです。
不老不死への憧れや人間界と仙界の対比などをテーマにし、
天台山の美しい自然景観や仙女たちの幻想的な世界を表現している作品です。
鑑真(がんじん)が繋いだ、仏教と茶の深い絆
中国側の記録では唐の天保3年、西暦744年に記録されている 宋史志盤の『仏陀記』によれば、唐の僧鑑真(ガンジン)は4度目の東遊で 明州(現在の浙江省寧波市)から寧海を経て天台山国清寺を訪れ、 多くの古典仏画を携えて日本に向かい、中国天台宗から日本へ、お茶、その他多くの品種を持ち込むと記載されてました。 日本の記録ではガンジンは6度目の渡航で753年日本にたどりついてます。 渡来人の鑑真(がんじん)は754年(天平勝宝6年)東大寺を与えられ 戒壇の設立と「授戒」(じゅかい:戒律を授けること)の準備 に入ります。このことから仏教の伝来とお茶には深い繋がりがあるようです。
天台山の茶葉は中国でも歴史に残る最古の茶畑の一つであり、一芯一葉または一芯二葉であり、 穀雨から立夏の前後に摘み始める。味は赤みがかった緑色で、味で芳酵、爽やかで、香りは高く、 長く続く。天台山中の主峰・華頂山、天台宗の総本山で摘まれる為この名がついたとされてます。 古代からの華頂雲霧茶(かちょううんむ)です。
「茶の湯」の始まりを告げる献上
永忠と嵯峨天皇、茶の出会い
歴史書『日本後紀』に弘仁6年(815年)4月、祟福寺の僧・永忠が 嵯峨天皇に『茶』を献上したと記されてます。 これが日本で育てた茶葉で飲んだ最初の記述とされてます。 『日本後紀』記述の中に「煎茶正史に始て見ゆ茶」という記述があります。 この時代はまだ抹茶や団茶が主流だったと思いますが、初めて煎茶でこの時飲まれたようです。 大変手間も時間もかかる煎茶で、丁寧にもてなすほどの仲は凄い絆のようです。
å佐伯有義 編『六国史』巻5 (日本後紀 巻上),朝日新聞社,昭15. 国立国会図書館 デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1172826 (参照 2024-05-07)
🔖ミニ知識
奈良時代以前から茶が日本に存在していた可能性を示唆するものは遺跡物などから茶葉の出土がいくつかあります。
また「古事記」の神話の中で、大己貴命(おおなむちのみこと)が茶を植えたという記述があります。
628年に推古天皇が中国から貢物として茶を受け取ったという記述がありますが茶を飲んだあどうかは
不明です。
8世紀ごろ日本の「お茶」のあつかいとは?
宗教的な意味合い、貴族社会における社交儀礼、茶の効能を享受する、精神的な鍛錬など、を行茶として貴族や僧侶などの社交 儀礼のようなものでした。現在のように飲む茶はまだまだ後の時代になります。
「行茶(ギョウチャ)の儀」として上流階級の人々がおこなってた記録があります
Vol1.で紹介しました8世紀に書かれた『茶経』の注釈書1774年刊行された『茶経詳説』に
『本朝聖武帝天平元年 召百人僧於内裡 而被講般若 第二日 有行茶之儀』,
行茶の儀とは,人に茶を進めることで,引茶ヒキチャの儀とも書かれます。
この記録は天平テンピョウ元年(729)に,聖武天皇が宮中に100人の僧侶を召して,般若経ハンニャキョウを
講読せしめ,それが終わった第二日目に,参列の僧侶のために,お茶を与えられたことが記され、
この行茶の儀は,その後天平勝宝元年(749)に孝謙天皇が奈良の東大寺に,500人の僧を召して,
盧舎那仏ルシャナブツの前において講読せしめ,終わって『茶』を賜られた,と云う記録もあります。
そしてこれらの儀式に用いられた茶は,勿論中国から輸入された「団茶」でした。
団茶とは?
7.8世紀に中国から仏教と同時にお茶は『団茶』として伝わり、初めは薬として飲まれていた。 お茶の効能として目ざまし、心を落ち着かせる、食後すきっきりする、など伝えられ初めは僧侶や武家 などに広まりました。この頃、まだお茶は大変高価な為上流階級の人しか飲むことができませんでした。 団茶とは、塊のお茶を削って細かく砕きお湯と一緒に茶葉まで全部飲まれれてました。現代のプーアル茶が 丸い塊になって販売されているような感じだったようです。 現代のプーアル茶は団茶になっているものがほとんどですこれは長時間発酵保存できるように塊にしている と中国の茶屋で聞きました。団茶は長時間の保存や運搬にも適していた、古代交易する品としては都合が良かった のでしょう。
団茶は「全て粉にして湯に混ぜて全て飲む」体には良さそうな感じですが現在のお茶と比較すると 飲みにくいものだったのではないでしょうか?陸羽が唱えた『茶経』には美味しく飲んでもらいたい 「もてなしの心」で茶を丁寧に入れることが記された『煎茶法』となってます。そして茶は薬だけでは なく、茶器、茶の香り、風味、茶心を楽しむことを唱えられています。
ひとつまみの塩は、最強アイテム
<古代の団茶を作る際に塩を入れた理由が4つあります。>
1. 保存性を高めるため
塩には殺菌効果があり、茶葉の腐敗を防ぐ効果があります。当時は冷蔵庫などの保存技術が発達していなかったため、塩を入れることで
団茶を長持ちさせることができたのです。
2. 味を調えるため
古代の団茶は、現代のお茶よりも苦味が強く、渋みも強かったと言われています。塩を入れることで、苦味や渋みを抑え、まろやかな味
にする効果がありました。
3. 栄養価を高めるため
塩にはミネラルが豊富に含まれています。塩を入れることで、団茶の栄養価を高める効果がありました。
4. 宗教的な理由
古代中国では、塩は神聖なものと考えられていました。塩を入れることで、団茶を神に捧げる供物として価値を高める効果があったと考
えられています。
日本古来智慧情報
日本古来から茶に『ひとつまみの塩』を入れて飲むと苦味を抑えてまろやかになり殺菌効果が
ある為風邪予防に効果になると古くから伝わる習慣にもなっている地域があります。
具体例として
群馬:麦茶に塩を入れると香ばしさが増します。
富山:ほうじ茶に塩昆布をいれて香ばしさを増す。
沖縄:さんぴん茶の苦味がおさえられまろやかになる。
埼玉:緑茶の苦味を抑えてまろやかになる。
塩とお茶の組み合わせ効果は昔から伝わる智慧だったのです。ちなみに熱中症対策には麦茶に塩分濃度0.1%
ぐらいの塩が良いとされてます。夏にお試しあれです。
『お茶の始まりは、薬として扱われていた』
陸羽の『茶経』が後の日本の茶道精神や日本の心創り、 智慧となり、大きな影響力をあたえ日本独自茶文化が生まれ ることになっていきます。 また鎌倉時代1191年に栄西が中国の宋から茶実 を持ち帰り、抹茶を使用した飲茶法を源実朝に 鎌倉時代に記された医書「喫茶養生記」を献じて 茶の薬用を説き、喫茶が武家社会にひろまり本書を 3代将軍源実朝に献上したと「吾妻鏡」に記されて います。「栄西」以後に日本茶が独自発展することに なり『栄西』は日本の茶祖と言われるようになりました。
明庵栄西 記『喫茶養生記 2巻』,銭屋惣四郎,刊年不明. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2535733 (参照 2024-05-03)