天から授かった”米の息吹”
Vol.2『米の隆盛』
日本に、どのように、『米』が、浸透していったのか?
縄文時代
到来
vol.1
弥生時代
隆盛
本編
古墳時代
信仰
vol.3
奈良時代
伝播
vol.4
平安時代
荘園
vol.5
鎌倉時代
転換
vol.6
室町時代
進展
vol.7
江戸時代
国本[前]
vol.8
江戸時代
国本[後]
明治時代
近代化
<なぜ稲作が日本で始まったのか?>
1:寒冷化で海退現象がおき食料確保の仕方が変わった
縄文時代中期後半以降から弥生時代は、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めました。 海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、 干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、 こうした海岸線の後退は、さらに進んだと考えられています。
古より、神秘の海として知られた豊穣な有明海。弥生時代、有明海の水面は今より5メートルほど高く、その海岸線上に位置していた、 吉野(よしの)ヶ里(がり)の大集落からは、多くの貝塚が見つかっています。今の佐賀平野もかつて有明海の一部だったそうです。
参考資料:古代の佐賀平野と有明海
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/kaihou44.html
参考資料:弥生ミュージアム
https://www.yoshinogari.jp/ym/episode03/nature01.html
海退によって出現した湿地帯や沖積平野は肥沃な土壌で水田を始めるには絶好の耕地となりました。
2:食料生産しないと確保できなくなったので
定住生活に大転換した
地球規模の寒冷化現象によって今までの量の食料確保ができなくなった 人口も減り食糧生産せざるえなくなりました。 木の木の実や獣、魚、貝をとって食べる時代から、食糧を生産する時代になり そして一定の土地にとどまるようになりました。
「獲得」が中心の縄文時代から、稲作農耕による食料の「生産」が本格的にはじまった弥生時代への転換は、
経済的・社会的な一大画期でした。
稲作をする為の水の確保、稲作に適した土地、農具作成など飛躍的に発展していきました。
<唐子.鍵遺跡の人々の生活イメージと出土した煮炊きした跡の土器、農耕具、木の実>
唐子.鍵遺跡資料引用
唐子.鍵遺跡から出土した木の実
トチノミ、サクラ、ヤマブドウ、アサ、イチイガシ、ヤマモモ、ウリ、マメ、ムクノキ、ヤマグワ、
ヒョウタン、オオムギ、モモ、クルミ
弥生時代の食生活はどのようだったのか?
『魏志倭人伝』には倭人の食生活について
「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」
「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」
「人々は生来酒が好きである」
と書かれています。
出典:登呂博物館復元資料
・弥生時代に煮炊きに使われた甕形土器に残る炭化物などの
状態から、穀物は水を加え炊いていたと考えられます。
・弥生時代には米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの
雑穀が栽培されていたことが明らになっています。
・倭人伝には手づかみで食べるとありますが、鳥取県の
青谷上寺地遺跡からは木製のスプーンが数多く出土しており、
おそらくスプーンを使って食事をしていたと推定できます。
弥生時代には主として
米や雑穀を炊いて
雑炊のようにして
食べていたと想像できます。
吉野ヶ里遺跡展示資料
吉野ヶ里遺跡展示資料
炊くとは別に蒸す調理法もあったことも推定できます。日常は米と雑穀を混ぜた雑炊を食べ、
祭りなどハレの日には蒸した米を高坏にもって食べたことが想像できます。
縄文時代の主食であった団栗などの堅果類も各地の遺跡から出土しています。
縄文以来の伝統食である団栗ダンゴなども依然、食べられていたことが窺えます。
弥生時代最大の水田痕跡
吉野ヶ里遺跡展示資料
佐賀平野の各地でも、このころから人々が生活していた痕跡が 見つかっています。 吉野ヶ里では、丘陵南部の田手一本黒木地区から環壕とみられる 壕の一部が検出され縄文時代晩期後半~弥生時代前期初頭の 土器や三角形石などが出土しています。 この他にも、丘陵の各所で少数の鰹穴住居跡や貯蔵穴(穴着)などが 検出されていることから、このころに吉野ヶ里の最初期の ムラが誕生したと考えられます。
弥生時代前期で最大級の水田跡見
中西遺跡水田跡
吉野ヶ里最古の環濠跡
古代の米はどのくらい収穫があったのでしょうか?
和歌山県の中西遺跡で確認された水田跡が約4・3ヘクタールだったと発表されてます。 4.3hの米は現代なら1ha=約5.3tなので⇨4.3x5.3=22.8tの米ができます。 現代日本人の年間1人で米約50kg食べているとして 古代米の収穫量は自然条件に大きく左右され、現代よりも不安定で少なかったと考えられます 仮に約1/3ぐらいしか収穫できない予想として 約166人分になります。
小さな中西水田より大きい吉野ヶ里遺跡環濠集落は、 おおよそ117ヘクタールのうち水田だった数字は様々言われてますが 昭和61年の水田部調査で約58.3hと判明してます。 米の収穫量は単純計算で103t 約2060人分の食料になります。 吉野ヶ里遺跡が大集落だったことがわかります。 当時は現代のような環境ではなかったので、もっと収穫は少なかった可能性があります。
稲作始めの道具
稲作初期の収穫は穂先を石包丁で刈り取るやり方でした
天理市立黒塚古墳展示資料
稲は種から撒いていた、天気によって発芽もまばばらで 収穫までそだつまでには、ほんのわずかで、神頼みに近く いろいろな工夫と試行錯誤して石や木で道具を作り、まだこの時代には、 鉄具は無かったのです。 また稲作の成長は気候に大きく作用されるため 稲作の種まき、水の引き込みなど季節によって作業内容が さまざまな為、暦を読みなながら作業を考えることが重要でした。 年間のスケジュールを考え作業分担しながら集団生活を していたことが、出土遺跡などからわかってきました。
天理市立黒塚古墳展示資料
古代カレンダー
約2300年前の弥生時代前期から600年栄えた、大きな環濠と集落があった『唐子.鍵遺跡』からわかった 人々のスケジュール年間カレンダー